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NHK「無縁社会の衝撃」への違和感

昨晩、NHKの「A to Z」で「無縁社会の衝撃」という特集をみて、強い違和感を覚えたので、少し書いてみます。


無縁死は特殊か

番組では、男女二人の若者を取材して、無縁死への不安を語らせていました。この二人は、それぞれに事情は違いますが、 三十代半ばで、未婚で、家族をもたず、それぞれが、無縁死への不安を口にします。
このインタビューが、同世代あるいはもっと若い人々の「他人ごとではない」という想いを喚起することは、よくわかります。 しかし、考えればすぐわかることですが、無縁死は、別に「家族を持たない人々」に固有の現象ではない筈です。

子供を持つ、仲の良い夫婦でも、成長すれば子供は家を出、二人が残されます。伴侶の一方が亡くなればもう一方は一人です。 ひとり暮らしを続けるなら、その人は(病院で亡くなるか)自宅で無縁死(孤独死)となるかのいずれかです。 実際、番組の後半では、親戚・家族はいるけれども、無縁死した人の例が出てきます。

ですから、家庭・子供を持っているから無縁死しないかというと、そんなことは無いわけです。 むしろ、現代のように核家族が主流である限り、無縁死は避けえないと、私は、思います。 それを何か、現代の「若者」たちに固有の不幸のように描写するのは、バイアスがかかっていないでしょうか。

これが一点目の違和感です。

なお、孤独死と無縁死は少し異なると思いますが、この番組ではあまり区別していなかったし、 少なくとも死ぬまでのプロセスに関して言えば同じなので(要するに死後の引き取り手の有無の違いのみ)、私も区別しません。

無縁死は不幸か

上記二人の若者が口にする不安をそのまま受け入れる形で、番組は進行します。その底流には、無縁死は不幸だから避けねばならない、 という暗黙の前提があります。その前提が依拠するのは、「幸せな死とは、家族・友人に看取られながらの死である」という観念でしょう。

たしかに、家族・友人に看取られながら幸せに亡くなる人はいると思います。しかし、だからといって、「家族・友人に看取られる」 と「幸せな」が、常に等号で結ばれる関係とは、私には思えません。

昔の家父長制のもとでは、一家の長が亡くなるときには、たくさんの家族が看取ったかもしれません。しかし、その大部分は、遺産目当てや、 単なるお義理だったかもしれません。それが「幸せな死」とは、とても思えないのです。

家族・友人に看取られる死こそが幸せな死だとの考えは、どうも、美化された記憶、ノスタルジーの類いではないでしょうか。

逆に言えば、無縁死はそんなに不幸なのでしょうか。死ぬ時は一人だったとしても、それまでの人生には、異性への焼けつくような想いも、 友への信頼もあったかもしれない。だれに看取られなくともそのことに変わりはないのです。
そうした想いは、ひとりで死のうが看取られようが、自分ひとりで墓に持っていくしかない。死ぬ時は誰でもひとりです。

死ぬ瞬間に回顧すべきそうした想いを持たないことを嘆くというなら、なんとなく話はわかります。 しかし、それにしても、そうした人間関係に価値を置くかどうかは人それぞれなので、別に一律に問題視する必要もないとも思います。

少し脱線しましたが、無縁死であろうがなかろうが、ようするに死は死であって、幸福な死かそうでないかは、本人の受け止め方次第だと思うのです。

無縁死が多くなると、発見が遅れるとか、残った財産の処分に困る、といったことはあると思います。
こうしたことこそ「社会問題」であって、対処の必要があるでしょう。しかし、「無縁死」そのものがただちに「不幸」で「社会問題」であると考えるなら、 短絡しすぎではないでしょうか。

自立は与えられるものか、また、自立は良いものなのか

番組に出演していた評論家の内橋克人氏が面白いことを言っていました。一字一句正確ではないかもしれませんが、こんな言葉だったと思います: 「若者たちは自立を求めて都会に出てきた。しかし与えられたのは『自立』ではなく『孤立』だった」。

これは大変興味深い言葉です。なぜなら、第二センテンスの言外に、「『自立』は、求める者には与えられるべきものである」という思想が潜んでいるからです。この思想は、伏流となって、次に触れる「社会責任論」に結びつきます。

しかし、「自立」という概念には「他者から与えられるものを当てにしないこと」が含まれていないでしょうか。であるならば、この思想は「自立」の定義と矛盾していることになります。

また、内橋氏は「自立」と「孤立」を別物と捉えていますが、私は、真の「自立」とは必然的に「孤立」となると考えます。 他者に頼らない、他者をあてにしないところに、コミュニケーションの生じる余地は無いのですから。

ですから、内橋氏の言っていることが正しいならば、「若者たち」はまさに求めていたものを手に入れたのです。 ただ、手に入れてみて、そんなに良いものではないとわかった、ということなのです。

むしろここで問うべきは、本当に「完全な自立」を求めるのが、人間の在り方として幸福なのか、ということではなかったでしょうか。極端な依存を求める心の性向が「依存症」と呼ばれる病気であるとすれば、極端な自立を求める欲望も「自立症」と呼ぶべきではないかと思います。

求めるべきは中庸にあり、とは昔からの知恵です。

責任が、個人か社会か、という問いかけの妥当性

「自立」と「孤立」の話を下敷きにして話は進み、ではそうした孤立状態に若者が置かれたのはだれの責任か、という問いを内橋氏は投げかけます。 そして、それは彼ら若者たちの責任ではない、だから「社会」の責任なんだという方向に話が進みます(後半は、内橋氏の発言だったか、 それを受けて鎌田キャスターが言ったことだったか記憶が曖昧ですが)。

私も、前半の「彼ら若者たちの責任ではない」という点については、おおむね同意します。 取材対象の2人は、それぞれに努力してきたように見えました。この2人だけではなく彼らに似た境遇の多くの人がそうでしょう。
しかし、それとともに、ある人の不幸が、その人自身の責任ではないからといって、他の誰かの責任であるということにはならないとも思うのです。

「他の誰か」が「社会」であっても、それは同じです。この世には「誰のせいでもない不幸」があると思います。 そして、そうした不幸から抜け出すためには、殆どの場合、その人自身の気持ちの切り替えや、不幸の超克が最重要で、他の人は助けになることはできても、 彼・彼女に代って不幸を幸福に変えることはできないのです。

そりゃ、自己責任論じゃないかと思われるかもしれません。でも、そうではないのです。不幸の責任が本人に無いとしてもやはり、不幸から抜け出るためのキーは本人だと言っているのです。 自己責任論よりひどいでしょうか。しかし、私は、これが、この世で生きることの、原始時代から変わらぬ真実だと思います。

ただし、ひとつふたつ良い知らせがあるとすれば、本人は自分を責める必要はありません。自分の責任だけではないのですから。
また、周りの人間(すなわち「社会」)が、彼・彼女に、自己責任論を投げつけるとすれば、それは不当な仕打ちです。彼らの責任だけではないのですから。
「社会」は彼らを助ける「責任」を負いません。しかし、私たちがなぜ寄り集まって「社会」を作るのかというと、 それは、不幸な時にお互いに助け合おうと意図してのことですから、「社会」がこうした人たちを助けようとするのは理にかなっています。
ただそれだけのことなのです。

それを、本人の責任か、社会の責任か、という二分法で捉えること自体が的外れなのです。的外れというだけではなく、有害です。
というのは、自分の不幸は自分の責任ではなく社会の責任なんだと「腑に落ちた」瞬間、ほとんどの人は、自分でその不幸から抜け出す努力を放棄するからです。
自分には責任がないのにどうして自分が対処しなければならないのでしょうか。こうした放棄はまったく合理的な意思決定です。
ここでの唯一の誤りは、「不幸には、それをもたらした犯人(責任者)が存在する」という仮説です。この仮説に根拠が無いことは、大きな自然災害、病気等のことを考えれば明らかです。 にもかかわらず、この番組は、こうした社会責任論を強調しているように見えました。

しかし、不幸は個々人によって様々であり、社会は、各人が不幸から抜け出す手助けはできても、社会の名において不幸を根絶することなど、結局はできないのです。 その点について幻想を抱かせる、この番組のような語り口の罪は大きい、と思うのです。

まとめ

以上まとめてみると、この番組では、若者が感じている「不幸感」に対して、もっともなことだと裏書きを与えた上で、その「不幸感」の犯人探しをやり、 「社会」という「ホンボシ」を挙げたわけです。
しかし、「無縁死が不幸」という前提は、「看取られての死」に対するノスタルジーのもとに無批判に措定されたものですし 、かつ、犯人探しにおいては安易な責任論が援用されています。
これが、私が違和感を感じた理由です。

この番組に限らず、最近の日本では、何かというと諸問題の原因を「構造的に」解明しようとする傾向があります。その結論は、「社会構造」「システム」に問題がある、という語り口で語られ、 そして、これが極めて安易に責任論に転化させられます。

それを聞いた人々は考えます:「なんだ、俺が悪いんじゃないんだ。システムの所為なんだ」。そして思考停止するのです。
構造的解説というのは、聞いた人間に、自分が賢くなったような印象を与えるから、なおさら始末が悪いんです。
社会の動きの裏側の仕掛けが分かった気になる。
でも、社会構造というのは、色々な経済的条件や歴史的条件の上で、なかば偶然的に成立しているものであって、 それに対する設計者や設計者集団はいないのです。
ですから、社会構造に責任を押しつけることには、あまり意味がない。責任を引き受ける人がいないのですから。

社会構造が悪いならば、その悪い構造を直す責任が、いくぶんは、自分にもあり、たぶん、少しだけ余分に、政治家にもある。
そして同時に、その悪い社会構造のなかであっても、なんとか工夫してやっていかざるを得ないという圧倒的な現実があるだけなんです。
それに、もひとつ付け加えれば、社会構造が必ずしも悪いわけでもない。「無縁死」の例のように、不幸かそうでないかは、各人の捉え方ひとつ、という場合もある。
こうしたことすべては、あなたや私の責任ではないけれど、他の誰かの責任でもない。
単に、「現実」がそういうものなのだと、私は思うのです。