僕のしたいこと
ノッフ! - したいことを仕事にしたいという言説
- 僕の望む時に、僕の望む良い音が出るひょうたんを叩き続けたい
- そのひょうたんから、僕の望む時に、僕の望む味のする飲料を飲むことが出来る
- 僕が飲料を飲むと、世界から10000の苦悩が減る
- 僕のいる場所は360度窓の民宿で、僕の望む時に、僕の望む風景が映る
- 僕の世話をするのは、奇麗なおかみさんと女中さんで、色恋なしのつきあいです
あはは。僕もひょうたん叩きたいっ!
引用したエントリの主旨は別におふざけではなくて:
ということです。したいことを仕事にしたいとかいう言説があります。
したいことを仕事に出来るかというと、僕は無理だと思う。
みんな我慢しているか、したいことに気付いてないだけなのです。
これはひとつの正しい見方だと思いますが、別の見方もあります。すなわち:
- 仕事にしたことが、したいことになる。
なんとなれば、人間は、自分が過去やってきたことを肯定したい動物だからです。
長い間一生懸命やってきたことが、自分のしたいことでなかったなら、あるいは価値のないことだったなら、いったいどうすればよいのでしょうか。たいがいの人は生きる気力を失ってしまいます。だから、人間は、自分が過去やってきたことに「価値があり」、自分の「天職である」と信じるように進化してきたのです。
あいにく僕は、このテーマについて、サンプルをひとつしか持っていないので、この主張は科学的批判に耐えうるものではありません。とはいえ、どのみち皆さんも立場は僕と同じなので、ご自分の胸に手を当てれば実感して頂けると思います。
ただし、この法則には付帯条件があります:
- その仕事に十分の資源(時間と努力)を投入してきたこと(資源を投入してこなかったなら、その仕事に価値があろうがなかろうがどうでもよい筈です)。
- その仕事を選択するという意思決定が自分自身のものであったと信じられること(人間は他者の意思決定の結果を享受したり耐えたり、あるいはそれに不満をとなえるのは得意ですが、賞賛するのは不得手です)。
- その仕事に関して他者からの報酬(対価、賞賛)を受けていること(人間は社会的動物です)。
一番目と二番目の条件は自分で制御可能。三番目は他律的です。ということは、三番目の条件が完全に満たされなくてもなんとか生き延びられるくらい強く、僕らの心が進化してきた公算が強い、ということです(他律的条件がちょっと悪いからといって僕らを破滅的行動に走らせる遺伝子は生き延びにくいと思われるので)。
であれば、僕らが注意すべき条件は二つだけです。すなわち、自分で意思決定して仕事を選び、それに十分の努力を投入する。そうすれば、たいていの場合、その仕事が天職であると思えるようになるのではないでしょうか。
これは人間に対する軽蔑的な見方、人間機械論だと感じられる方がいるでしょう。たしかに機械論の一種かもしれません。しかし軽蔑的であるとは思いません。
人間は、自分の感情や動機を冷静に分析できる一方、そうした分析に関わりなく、仕事が与えてくれる喜びを(苦しみも含めて)噛み締めることができるのです。
この二重性がわれわれの精神に豊かさをもたらしてくれます。自分の仕事に価値を認め、それを誇らかに思うと同時に、自分がその仕事にそうした感情を抱くのは、その仕事の本質に基づくものでないこと、他者は別の仕事に同じような感情を抱き得ること、を許容できるのならば、それは素晴らしいことじゃないでしょうか。