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業績評価と「管理可能性」

お客様の会社で業績評価について議論していると「管理可能性」の話題になることがよくある。「コントローラブル」かどうか、という言い方をすることもある。

たとえば、「本社費が山ほど配賦されてくるけど、現場にとってはコントローラブルではないよね」とか、「為替の影響で利益が大きくブレるが、為替管理は財務部門が行っているので事業部門ではアンコントローラブルだ」と言ったりする。管理会計において管理可能性の概念は大変に重要で、「管理可能利益」とか「管理不能費」にふれていない管理会計のテキストはまず無いだろう。

業績評価に関するひとつの立場として「人は、自分にとって管理可能な要素によって評価されるべき」という考え方がある。こうした立場からは、管理不能な要素は評価項目から排除していく、というアプローチが妥当性を持つ。先ほどの例で言えば、為替の影響を排除するために輸出売上高の換算には予算レートを使いましょうとか、本社費の配賦はやめましょうということになる。

このアプローチの欠点は、管理可能な要素を限定していった結果として残った、管理不能なもやもやした部分に対して、誰も責任を持たなくなることだ。まあ突き詰めて言えば社長が持つのだが、それは形式の問題で、実態は野放しになってしまうわけである。

しかし実際問題として、企業は市場環境の中でビジネスを営んでいるのであって、そこには管理不能な要素がたくさんある。管理不能な要素が混じれば評価できないというのであれば、そもそもビジネスという行為じたい評価できないことになる。だから業績評価といっても厳密な意味での管理可能要素だけに限定することはできないのは自明で、実はそんなことはみんなわかっているのだ。

だから本当の問題は「管理可能かどうか」ではないのである。

ひとつは、業績評価の意味づけである。管理可能性に固執する態度の根っこには、業績評価と人事評価が結びつくという認識にもとづく防御の意識がある。トップが両者をきちんと分けて考えられなければ、「管理可能性」をめぐる不満が組織に沈殿する。また、これはトップだけの問題でもない。社員が業績の数字だけみてお互いにやっかむような風土があれば、こうした意識が自然に醸成される。
業績評価(業績報告)とは本来、説明責任の履行である(と私は思う)。結果の良し悪しももちろん大事だが、それ以上に重視されるべきは、なぜ良かったか、なぜ悪かったかを理解しようと、問いをつくしているか、その分析を踏まえて打つべき手を打っているか、といったことがらである。数字だけで評価するのではないというスタンスを組織に定着させるには、こうしたコミュニケーションが常に行われるよう仕向けることが必要と思う。

もうひとつは、「管理可能性」を捨て、「改善可能性」というコンセプトに切り替えることだ。誰でも嫌なのは、自分がまったく手出しできない仕事の結果が自分の業績数字に影響してくることなのである。完全にコントローラブルかどうかではなく、自分の努力や工夫でなんとか状況を変える可能性があるかどうかが問題なのだ。
前出の為替の例で言えば、月別の為替予約枠の決定に対して、事業部門が発言権を持つようにしたらどうだろう。調整が複雑になりすぎるというのであれば、実際にいくらの枠を設定するかは財務部門の責任として、事業部門が要求した枠は必ず与える(実際の予約枠との差については財務部門が責任を持つ)といったアレンジメントも可能ではないだろうか。
本社費の例であれば、配賦方法を工夫することが考えられる。売上高基準で配賦すると、現場としては、稼げば稼ぐだけ上納金が自動的に増えるわけで、いったいなんなのよこれは、という気分になる。たとえば人員数や勤務時間、使用している事務所の面積といったコスト要素で配賦すれば、すこしは「頑張りしろ」が出てくる。もちろん配賦レートは予算に基づいて固定すべきだろう。

管理会計については色々な技法が考案されており、その中には華々しく喧伝されているものもある。それらを否定する積もりはまったくないが、現実に多くの会社が抱えている問題の中には、そうしたテクニックを使わなくとも、ここで述べたような工夫(というより視点の切り換え)で改善できる部分がかなりあるように思っている。