Hot Heart, Cool Mind.

会計×IT の深層へ

年の終りに

今日の日経朝刊の「春秋」はやけに暗く一年を〆ていた。僕にとっては、2009年はとても良い年だったが(FusionPlace をリリースできたからね)、世間的には、なんともいえぬ、どんよりとした感じが漂っている。職を失って困っている人々が暗い気持ちになるのは当然だ。同情する。

しかし、そういう、現実に困っている人だけでなく、とにもかくにも日々の生活ができ、エコポイントで大型テレビを買っているような普通の人々までが「暗い」「先行きが見えない」と言っている。もちろん、こうした人々は、現時点での困窮に対してではなく、将来に対して不安を感じているのだ。


でも、少し考えてみれば、「先行きが見えない」ことの方が、人類の歴史の中では普通なのではなかろうか。「今の仕事や生活の延長線上に、安定した将来が予想できる」状況の方がむしろ稀なんじゃないだろうかという気もする。そして、そういう、先行きがわからない中で、より良い未来に行きつく可能性を少しでも高めるために何をすべきかと考え、あれこれ工夫し、時には賭ける、という生活の方が人間的であるように、感じないだろうか。

今の日本での一番の問題は、やはり、少子高齢化とそれに伴う社会保障費の増大だろう。もしかしたら、僕が高齢者になる二十数年後には、日本の医療保障制度は崩壊しているかもしれない。僕は、CTもMRIもインフルエンザの予防接種も受けられないかも知れない。アリセプトアルツハイマー症の薬)もなく、ガンになっても手術する費用さえ無いかもしれない。困ったことだ。

でも、それで何か問題でも?という気もするのである。

単に、明治の人々と同じ境遇に置かれることになるだけだ。百年前にはこうした医療技術はなかったが、だけど、それは人々がけものなみに暮らしていたということでは当然ない。やはり、人間的に暮していたのだ。人間の生と死について、技術的な知識では我々の方が勝っているかも知れないが、「生と死とは、自分にとって何なのか」というまことに人間的な問いについては、彼の時代の人々の方が深く知ったかもしれない。酸素吸入器も心臓マッサージもない死の床で終わりを静かに待つ時間に。

もちろん、自分の親しい人が病気で苦しんでいれば、手に入る手段を何でも使って、苦しみを和らげてやりたいと人は考える。僕もそう考える。これも、とても人間的なことだ。しかし、そのような「手段」がない場所でも、人はやはり人間的に生きられるのだとも思う。

別に医療に限らない。車があればあちこちに行けて見聞が広がるが、無くても僕らは、近くの街、野山を歩くことで、自分の世界を広げることができる。子供を私立の学校にやることができたら、良い教育を受けさせることができるかもしれないが、そうしなくても、一緒に遊んでやり、本を読み、教えてやることで、子供は育てられるのではないだろうか。

「人間的に生きる」ことが望みであれば、将来についてそれほど憂い悩む必要はない。将来への備えは不要だと言っているわけではない。自分に出来る限り、将来に備えるのも、また、人間的なことだ。しかし、自分に出来ることを全てやってなお悩むのは、単に「悩み過ぎ」なのではないか。「春秋」では「煩悩」という言葉を使っていた。記者がどういう意味で使ったのかは定かではないが、こうした「悩み過ぎ」にはまさに「煩悩」という言葉がぴったりくる。

僕らは、スウェーデンには劣るのかもしれないが、数十年前、百年前、あるいは、過去数千世紀にわたる時代に生きた人々に比べて、ずっと良い暮らしをしている。日本の外の数十憶の人々と比べて、ずっと恵まれている。そして、有形無形の色々な財産を持ち過ぎて、失うことに戦々恐々としている。

でも、「人間的に生きる」ことと「財産を持っている」ことの間には、本当はあまり関係がない。そう考えれば、「先行きが見えない」ことも別に恐怖の対象ではなくなる。むしろ「生きるということ」を一生懸命考え尽くそうとする機会を提供してくれている、と思えるようにならないだろうか。

来年が良い年でありますように。