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認知症のこと

今日、NHK認知症に関する特集をやっていました。

母がアルツハイマー認知症で、近所のグループホームに入所しているので、こうした番組は興味を持って見ています。

番組は、アルツハイマー型だけでなく他の要因による認知症も含め、認知症治療手法の開発の現況ををバランスよく伝えており、その意味で、うまく構成されていたと思います。

その上で、番組をみて僕の感じたことを少し書きます。


番組は、二つのメッセージを中心に構成されていました。ひとつは、「認知症は治療できる」、もうひとつは「認知症は予防できる」ということです。当然のことながら、「認知症は予防し、治療すべきもの」という認識がこれらの前提にあるわけです。

認知症患者の介護には大変な労力がかかりますから、国民経済的観点からすれば、認知症にかかる老人の数を減らした方が良いというのは納得できます。

しかし、個人レベルでいうと、認知症というのは、本来、そんなに不幸な病気なのかなあ、とずっと思っているのです。

認知症」と聞くと、まず、恐怖心とか、そうなったらいやだという感情が先行してしまうようです。以前、確か朝日テレビ古舘伊知郎の番組だったかと思いますが、取材を受けた中年女性(健常者)が認知症への恐れについて「自分が自分でなくなってしまう」とおっしゃっていました。これはかなりの程度一般的な受け止め方のように思います。と同時に、少なくとも僕が母を見ていて感じる限り、根本的に間違っています。

認知症患者がつらいのは、むしろ、自分が自分であり続けるからです。昨日の自分と今日の自分は同じ自分の筈なのに、昨日出来たことが今日は出来ないからつらいのです。自分でそれを知るだけでもつらいのに、周りがそれをいちいち指摘するから余計につらいのです。

逆に言えば、自分がいままでは出来こと、今もできてしかるべきことにあまり拘らなくて済む環境があれば、それほどまでのつらさを感じなくて済む可能性が高いと思うのです。

母の場合、現在は、グループホームの職員の皆さまのおかげで、温和に暮らしていますが、看護婦としてずっとプロ意識を持って仕事をしてきたプライドが災いしてか、当初は、つらい時期がありました。

そうした母を見ていて思うようになったのは、この病気をつらいものにしているのは、病気そのものよりもむしろ、母も含めた僕たち自身のモノの考え方ではないだろうかということです。

僕らは、人と付き合う時、その人に何ができるのかといったことで、その人の「価値」を推し量ろうとします。大変、機能主義的な見方をしているわけです。独立した個々人が、地縁血縁ではなく相互のメリットに即して関係を取り結ぶということが近代社会の原則であるならば、これはまさに近代社会の要請でもあったわけですが、そうした付き合い方をしているうちに、いつの間にか僕たちは、自分自身との付き合いに於いても、同じ考え方を適用するようになってしまっているのではないでしょうか。

すなわち、あれやこれやのスキルを持っていることがみずからの「価値」の成立基盤と思えてくるわけです。

ですから、そうしたスキルが失われていくと「自分が自分でなくなってしまう」と感じるのではないでしょうか。そして周りもそれを悲しみ、失われたスキルを回復しようとするから、余計につらい。

しかし母が苦しんでいたとき思ったのは、その苦しみ方、悲しみ方自体が、なんとも母らしく、それ以外の誰のものでもあり得ないのです。スキルは失われたかもしれませんが、母の母たる部分は、本当は何も失われていないのです。

今はもう少し病状が進行していますが、やはり喜び方、怒り方、悲しみ方、そして、時折りみせる僕らへの思いやりは、いかにも母らしい。

生活は少し不自由になったかもしれませんが、その人の本質は何も変わっていない。

だから、自分自身も他者も含めて、人間の価値を「スキル」の多寡で量る考え方から、僕たちが少し自由になれば、僕たちはこの病気ともっとうまく付き合っていけるような気がするのです。